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星野氏は鎌倉時代の初期、後堀河帝嘉禄二年(1226年)、始祖星野中務大輔胤実が筑後国生葉群星野郷
に封ぜられ星野領主となってから約三百六十年後の天正十四年(1586年)、直系十八代星野鎮胤(吉実)の
代に没落するまでの間、分家一族共に繁栄し、生葉、竹野両群の内壱千余町を領し星野に本城を各地に数多
の支城を設け、防備を厳にし支配に便せり。実に三百六十年の長きに渉り、その間盛衰常ならざれども、一方
の重鎮とされし家統で、文永、弘安の役(弘安の役には胤実の息子鎮実、其の子鎮能父子が参戦している)に
参加して勲功あり、特に吉野朝に盡し、大義名分を明らかにし、終始一貫征西将軍宮を擁護し奉り、常に五條、
菊池、黒木氏等と聯絡を取り、忠節を全うする。(「星野氏史実顕彰会」より) ※筑後国→現在の福岡県南部
勤王星野氏の名は太平記その他の史書、島津、五條、名和、河野諸家、木屋文書中に
散見されるところである。昭和十七年歴史学者橋本徳太郎氏は征西将軍宮懐良親王の御在所と墓所を確かめるために星野村に来訪され村内各地を実地に踏査するかたわら、諸家の古文書を詳細に調査し、加うるに「勤王星野氏とその流裔」をも併せて六百四
十ページに及ぶ膨大な著書『征西将軍宮御在所御墓所考証‐附、勤王星野氏一族末裔
の研究』なるものを発刊された。この著書の中で星野氏の動向について諸家の古文書
を照合して探求されている。又橋本徳太郎氏は昭和九年に文部省史蹟名勝発行による
『征西将軍と星野一族』も書かれている。没落後の星野氏の末裔は、その直系は肥前
佐賀(佐賀藩)に、分家は筑前、肥後(細川藩) 或いは遠く新潟など
に四散している。≪石橋正良著『星野宗家没落始末記』(『征西将軍宮御在所御墓所考証』より)より≫
中世、星野村を中心に威を振るった星野氏の祖、星野胤実は,源助能(黒木大蔵大輔源助能)<※由来を参照>の猶子で、徳大寺実定の
子と伝えられ、京都に生まれる。嘉禄2年(1226年)、京都から来たと伝え,本拠を本星野に置き、天正年間末まで勢力を誇った。又義父の黒木氏は
多田行綱の子と伝えられて来たが、最近の研究では醍醐源氏(有明親王A)の後胤源高能五代説が有力と思われる。(以下『黒木町史』より)「黒木氏の祖先は京都御所を守る武士であったが源助能の四代前の源高能が、
太宰府を焼き払った藤原純友を四国へ追い払った先祖の功により大隅国根占城主となると伝えられている。徳大寺家は元々黒木庄一帯の管轄者で{昔は有力公家が荘
園の官吏をしていた}、助能の家と実定の家が高能の代から親交のある関係から、瀬
高庄の紛争{源平}解決とその後の監督、支配のため、父能永と黒木庄に移ったのである。その年代は史料や系譜によって一致しないが根占文書{九州史料刊行会編、『九州史料叢書』}と『大根占町誌』により仁安元年(1166年)頃と推定される。」
『九州治乱記(北肥戦誌)』に、「黒木山の城に蔵人源助善(能)という者あり、其の先は薩摩の根占の蔵人とも
申しけり、歌よみにて笛の上手なり。」とあり、高倉院の御宇、源助能が大番役にて上洛した折りの内裏での管絃
の御遊に、助能の笛の器量を兼ねてから良く知っていた徳大寺左大臣實定卿の勧めにより笛を奏で、帝の叡感に
預かり調(しらべ)の姓と従五位下を賜った旨が記されている。又、「蔵人助善(能)、元来高倉院北面の侍なり。
六位を歴、歌人にて、異名にやさ蔵人と云う。」との記述がある。※助善を或いは助能と記されている。
別史料(『樋口宗保覚書』‐1669年、『北筑雑藁』‐1675年)などには、後鳥羽院の御宇とあり、「懐胎せし官女
小侍従を賜る」ともある。 ※黒木山の城→猫尾城
胤実は童名を八郎丸といい京都樋口小路に産まれ、小侍従の家と由緒あった樋口次郎太郎藤原実安が元服
させ、その後、後堀川帝より星野を拝領あって星野へ下向し、黒木の小侍従と母子の対面を成し、助能の猶子と
なり、これより黒木氏、星野氏は調(しらべ)党と号すことになり次第に繁栄する。(『樋口宗保覚書』より)
『太宰管内志』に収載されている星野氏の事跡を辿ってみると、「多田蔵人行綱の子大蔵大輔源助能、云云。
助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の鼻祖で幼名
を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従(徳大寺実定の項を参照)といって京都樋口小路の産まれで、徳大寺実定卿の子か、或いは
後鳥羽院の皇子にして実定卿に託して子と成したとか。」とある。
※黒木氏、星野氏、樋口氏(『遊覧雑藁 巻之二』(P.108から))
続いて『太宰管内志』に「堀川院の時胤実は筑後国星野を賜り、嘉禄二年十一月星野に館を構えて本星野に居る。且
つ星野山中に内城高岩城を築き、其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は「亀甲藤丸」とす。
八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり、長を鎮実と云い右近大夫と称す。
本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安の養
子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部大輔
鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔元親、
其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。鎮種の子星野下
總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康本星野館に居る。
次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔吉實、次に星野右衛門太
夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ
の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せ
ず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏黒木氏同盟して猫尾城を守る.大友氏は偽って竹尾外記なるもの
を猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て
名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文三年(1535年)九月十三日に死す。その
子伯耆守正実は福丸城に在ったが、大友勢に攻められて周防に逃る。この後星野氏は大友氏に属し、右衛門
太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが、大友氏
の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後
勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り、弟鎮胤(吉実)は初
め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正十四年(1586年)八月二十五日筑前高鳥居にて
討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する」とある。
高鳥居山(たかとりいやま)は若杉山山脚の西に続く草山也。往昔若杉太祖宮二之鳥居の建つ所に因んで、地名と為す俚俗は竹城と呼ぶ。蓋
し小笹族生ずるを以て也。海抜三百八十一米東方は若杉に、南方は上須恵に、西方は須恵に突属し、山上に高鳥居城址在
り。若杉山の渓より引水を為す溝渠有り、十間戸樋と云う。これは古え城中之用水を引く所也。東方の第一峰を飯焼と云い、最
西方を草城と云う。九州探題北条貞時之臣、河津氏が初めて高鳥居に築城する、北条氏滅亡より宗像大宮司の持城となりその
後様々な氏が城主となるが天正二年冬よりは空城となる。天正十四年筑後鷹取城主星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉
兼、島津氏の催促に応じ八百人を率い筑後を発し、筑前岩屋城を攻略し、高鳥居城に入り、直ちに城櫓を修し、守備を厳にす。
八月十六日秀吉の先手が長門を発して豊柳ヶ浦に押し渡り、島津勢は陣払いを為して引退す。八月二十五日立花勢は進んで
高鳥居城を囲む。初めより星野吉実、吉兼、高鳥居城を守りて生還を期さず。其の子、長虎丸を使しめて、筑後に帰す。
吉実主従自ら殉節を為し、草城十五詠を作り、辞世とする。(「竹城址蹟碑文」より)
応仁の乱に星野氏は山名宗山の西軍につき、十六世紀中頃前には豊後大友氏に従い、さらに周防大内氏を頼り
田川群に所領を与えられ十六世紀中頃からは毛利氏に従ったが、一族の中には大友氏につく者も出た。島津氏
が九州に覇を唱えると前述の様に同氏に属し、筑前若杉山高鳥居城に籠城した。《以下、佐賀県史編纂資料、「星野村地勢附城塞と諸嶺峰」より》「天正十四年豊臣秀吉の九州仕置に際
し、島津義久と共に、豊筑の間に出張防戦す。時に義久は薩摩に帰り星野鎮胤(吉実)、弟鎮元(吉兼)をして筑前
高鳥居城を守らしむ。秀吉は立花左近宗茂並びに中国の兵を加え攻めしむ。兄弟能く戦いしも衆寡敵せず城将に
危し人あり吉実、吉兼兄弟を説くに速に降伏せんことを以てす。曰く、今吾々降伏せば島津氏に対して約に違う、
潔く義死するに加しし。敵前石上に据座し割腹自刎す。世人其の義勇を歎称し、其の跡に塚を築き吉塚と云う。
今地名となれり塚は博多駅から一駅の吉塚駅の東にあり。」
星野鎮胤(吉実)と弟鎮元(吉兼)の子である鎮之(長虎丸)及び熊虎丸は天正十五年六月叔父石川右馬助
(妻は吉実、吉兼の妹、)夫婦の介添えで肥前の龍造寺政家に預けられ、石川右馬助は両名幼稚の為身代わり
になって切腹したが、その後鍋島直茂に預け替えになり、鍋島家の家臣として仕える身となる。又前述の吉実、
吉兼の妹(後に三位の局と云われる)も佐賀藩に仕え、兄の二人の子と自分の子を佐賀藩士として育てあげ
た。長虎丸は元服して星野源兵衛親之と云い、その子は源兵衛重之で重之に嫡男がいなかったので娘に同藩
の大木庄兵衛知明の子を婿養子とした。『葉隠考補方六巻』に星野惣右衛門英鉄、後に入道英鉄と号し佐賀
楠神社の創始者の一人であると同時に筆墨は大師流と書かれている。この星野宗家の末裔は佐賀市に栄え
る。又、熊虎丸は、元服して星野七兵衛親昌と云い直茂に仕える身となり、直茂の子、勝茂と次にはその弟の忠
茂に召抱えられ、忠茂が慶長十七年に小城藩に分家する時随従して、以後姓を松崎と改めたが(当初は松崎姓を
名乗るが江戸期を通じて小城藩士星野家として存続する)、この子孫も 小城町にある。直茂の奥方陽泰院に仕えていた
三位の局は陽泰院逝去の時、その報恩のために追腹殉死をした。筑前国朝倉郡大庭の星野氏が石川右馬介(助)、
三位の局の子孫と伝えられる。(『星野宗家没落始末記』より)
『太宰官内志』に天文三年(1535年)星野親忠は死すとあるが、佐賀県史編纂資料、「星野村地勢附城塞
と諸嶺峰」に「享禄年間、大友義鑑度々近国を略奪し名一世に赫き威武大いに張る。四隣その風を望みて皆降る。
独り筑紫国人星野親忠、勇武にして自立の志を懐く、義鑑大いに怒りて天文年間自ら兵を率いて親忠を生葉城
(星野支城)に攻む。利あらず して帰る。人を京師に馳せて之を訴ふ。幕府令を下し大内、島津、小貳及び千葉、
蒲池、秋月、筑紫,殆ど九州の兵を合わし星野城を攻囲せしむ。親忠勇武絶倫良く禦ぎ戦い、少しも屈せず、次年
閏五月に至る。 義鑑大いに衆を励ます。戸を踰え壁に乗る、城将に陥らんとす。大内氏人を遣わし諭す。
親忠遂に城を致して去る、行扁を知らず。明治の聖代新潟県藍川(北魚沼郡)に落去せし徴証あり、小千谷町を
中心に数十戸を存す。」とあり、この子孫小千谷市に栄える。昭和になって小千谷市のこの星野氏の子孫に国から、
南朝に尽くした功により華族に列するとの話があり辞退している。
《享禄年間→1528年〜1532年。 天文年間→1532年〜1555年 室町幕府末頃(戦国時代)》
※星野氏の越後行きを助けたのが大内氏と云われる。大内氏の重臣の仁保氏の親族である平子氏は越後国の
小千谷・川口方面を拠点としていた。この仁保氏の仲介によって実現したものと考えられる。
星野村池の山の社麻生神社と室山の室山熊野神社 ≪星野村(現八女市)指定文化財・史跡≫ はいずれも
星野胤実の創建といわれている。毎年9月18日に麻生神社に奉納される「はんや舞」は征西将軍宮懐良親王を慰めるために始められたとも伝えられている。
星野氏は常に勤王の志深く、南北朝の頃には口に勤王を唱えつゝ其の実変節するもの
多々あるに拘わらず、終始一貫能く南朝に勤め敵軍に降伏せし如きこと無しと伝えら
れる。1342年には麻生に「興国」という南朝年号を刻む石碑(現大円寺蔵)を建立し
ている。正平14年(1359年)筑後川の戦いにも親王に従って出陣している。文中3年
(1374年)征西将軍職を甥の良成親王に譲った懐良親王はその後,下小野の内宮や大円
寺を居とし,弘和3年(1383年)大円寺において死去したとする説があり、大円寺北側
の山頂にある墓が親王の墓として星野村(現八女市)の文化財に指定されている。又、星野近郊の星野氏末
裔が星野氏歴代の墓標を集め、供養したのが星野村(現八女市)文化財の星野氏墓所である。
玉水山大円寺は征西将軍宮懐良親王ならびに勤王星野氏累代の菩提所で、星野村(現八女市)指定文化財・
史跡になっており、寺の由来書によれば神亀二年(725年)の創建で、星野氏歴代尊崇の観世音菩薩は行基の
作とされ、星野村(現八女市)の文化財に指定されている。
御開帳は五十年に一度と守られ、征西将軍宮懐良親王並びに勤皇星野氏累代の菩提所としての法灯は
今日迄絶える事無く守 られている。又、前述の様に一説には懐良親王は同寺で弘和三年(1383年)三月二十七
日に没したと伝え、現在境内に星野村資料館が建てられている。
懐良親王の子、良宗王《本名雅良王。号は後醍院(後醍醐源氏)》の母菊池重子姫は、菊池肥後守武重公と、
その室星野氏(豊姫)の娘と伝えられている。昭和十一年秋、おつれどんの墓と呼ばれてきた大円寺境内の一角で、
懐悟院殿銘五輪塔地輪《懐良親王御息所逝去〔元中六年(1389年)〕の供養塔、現在星野村史料館収蔵》
が橋本徳太郎氏によって発見されている。(『玉水山大円寺の由緒』より)
樋口実長は戦国期に星野氏の重臣であったが、星野氏滅亡後、小早川隆景に属し星野の再建に尽力した。墓は
村内仁田原にあり、「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓≪星野村(現八女市)指定文化財・史跡≫」と見え,寛永4
年(1627年)死亡している。同14年実長の孫実次が庄屋の時代,島原の乱が起こった。(『角川日本地名大辞典』より)
細川藩《熊本藩(熊本県)》中の星野氏は、武芸の家として宝暦年中に星野角右衛門、その子龍助(名は實壽、天保十年
没)、その子如雲(四郎左衛門實、明治十五年没)と伝えられ、居合術、組打と薙刀の三芸師範であった。
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