星野氏‐星野氏の歴史           

 星野氏は日本の氏族で、主なものには以下の各氏がある。                                                                                目次        1.熱田大宮司家の星野氏        2.藤原姓の諸流星野氏 3.江戸幕臣の星野氏        4.筑後国の星野氏 5.諸国諸流の星野氏
       1.熱田大宮司家の星野氏         尾張国(愛知県西部)の熱田神宮(伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄える)は、尾張国造の一族である     尾張氏が神官としてその勤めを世襲してきた、三種の神器の一つである神剣草薙剣(天叢雲剣)を祀る大社で、     尾張氏の始祖、天火明命(アメノホアカリノミコト)以来の古伝系図が今に伝えられている。     尾張氏が草薙剣を祭祀する地を熱田に決めた時期は、尾張氏が大和朝廷の外戚家として全盛を極めた五世紀末     から六世紀当初頃と推定される。                   熱田大宮司尾張員信の長男と次男が権宮司家として独立し、三男尾張員職が寛徳二年(1045年)に     熱田大宮司職を受け継ぎ、員職の娘・職子が、応徳元年(1084年)〜寛治3年(1089年)くらい迄に、     藤原氏(藤原季兼)に嫁ぎ、その子季範《寛治四年(1090年)〜久寿二年(1155年)》が、永久二年(1114年)     に大宮司となり、藤原姓の熱田大宮司が発祥した。     季範の次男範信星野氏を号し、ここに熱田大宮司家の星野という名字(苗字)が生まれた。      ※平安時代→794年〜1185年/1192年                         上記をもう少し詳しく説明すると、藤原鎌足三代・左大臣武智麻呂(藤原不比等の長男)は藤原南家の祖、     武智麻呂の弟・参議房前(藤原不比等の次男)は藤原北家の祖と云われるが、藤原南家の武智麻呂の子・参議     乙麻呂の子孫は東海地方の武家となり、乙麻呂の弟巨勢麻呂(参議、式部卿)の子・貞嗣(従三位、参議、中納     言)の五代・伊文(播磨守)の五代・尾張国司目代の季兼(藤原鎌足12代、別号、三河四郎大夫。父実範は文章     博士、大学頭を歴任した)に、尾張員職の娘・職子が嫁し、その子季範(別号、額田冠者。 従四位下)が大宮司     となり、尾張氏の系統(田島氏、馬場氏)は権宮司家(祭主、祝師家、惣検校家)として祭祀権、社領経営権の     実質的な担い手となり、藤原姓の熱田大宮司が発祥し、季範の次男範信《星野大宮司、従四位下、式部丞、     神谷御厨(伊勢神宮の荘園)の給主、上野介、後に出家する》が、三河国宝飯郡星野荘に基づきて(星野荘を領     して) 「星野氏」を号し、星野名字とする流れが生じた。又、星野氏は後に鎌倉将軍源頼朝の伯父となる。 ※三河国宝飯郡星野荘→愛知県豊川市正岡町など。        ※「公卿類別譜〔公家の歴史ー尾張氏(千秋氏)〕」尾張氏系図の範信にマウスカーソルを合わせて参照。     ※常陸国、上総国、上野国は親王の領地「親王任国」と定められていたので、上野守には親王が就任し、上野介は       国府の実質的長官である。                       この藤原氏による大宮司職の相承は、熱田大明神のお告げによるものと伝えられていて、およそ二百年後の     正和元年(1312年)成立の『玉葉和歌集』に、熱田大明神託宣による出来事として「櫻花散らなむ後のかたみに     はまつにかかれるふぢをたのまん」という歌が記されている。            「熱田大宮司家の威勢、国司にも増さる」と『宇治拾遺物語』にある様に、神威を背景に威勢を誇った熱田神宮で     あったが、尾張員職が大宮司職を継ぐ頃には、中央政府から検田権を委譲された国司との関係の軋轢などによ     り次第に行き詰まる事になる。又、応徳四年(1087年)に員職が大宮司を退いた後、員職の子の季宗、季員、     職実、兄員頼の子頼奉などが大宮司職に就くのだが、大宮司職を巡っての内紛などもあり、藤原氏に嫁いだ     職子(員職の娘)の子・季範を大宮司として迎える事で、国衙との関係改善や、諸々の事情解決を計ったものと     推察される。                         ※以下、【『尊卑分脈』〜星野氏に返付されたものと思われる。】迄(【〜】)は、藤本元啓著(2003年)、     『中世熱田社の構造と展開』「第1章藤原姓熱田大宮司家の成立と平治の乱13頁〜16頁迄、30頁。      第2章鎌倉幕府と熱田大宮司家44頁〜47頁迄、50頁〜52 頁迄。第3章室町幕府と熱田大宮司家57頁、      62頁、65頁 〜71頁迄、81頁〜83頁迄。」より引用、(続郡書類従完成会刊)              【『尊卑分脈』によると星野氏は季範の次男範信に始まり、範信の次男範清、子孫へと受け継がれて行く。     範信(星野氏)は式部丞、上野介、範信の兄範忠は後白河院北面、弟範雅が後白河院上北面、次の弟範綱     が大学助大夫。下の弟三人は範智が園城寺法眼、祐範が園城寺法橋、長暹が仁和寺法眼(後白河院第二皇子     守覚法親王に仕える)。姉妹上二人は、待賢門院女房大進局、上西門院女房千秋尼、姉妹三番目で妹の由良姫     (由良御前)は源義朝に嫁ぎ源頼朝(久安3年・1147年〜建久10年・1199年)、坊門姫の母となり、末の妹は     村上源氏師隆の子師経に嫁いでいるが、師経の伯母も 待賢門院女房で、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母     一条となっている。 ※由良の娘坊門姫の血筋は後嵯峨、亀山両天皇にも伝わって行く。      ※待賢門院璋子→藤原北家閑院流公実の娘、鳥羽天皇の皇后。            以上の様に範信(星野氏)と、その兄弟姉妹を『尊卑分脈』から紐解いてみると、殆どが京都(朝廷)に関係して     いる事が判る。又、由良姫が義朝に嫁いだ事により、熱田大宮司家一門は鎌倉将軍源頼朝の外戚家となる。     範信の姉妹に待賢門院(璋子)女房大進局がいたが、義朝の母方(藤原忠清)一族にも待賢門院庁別当藤原     清隆、待賢門院蔵人藤原康俊らがおり、由良姫と義朝との縁組み、即ち大宮司家と源氏との接近に関与したもの     と思われ、頼朝は実に多くの待賢門院に連なる父方、母方に囲まれていたという事になる。                    又、範信の兄範忠の娘は季範の養女となって足利義康(鳥羽院北面・左衛門尉、保元の乱後昇殿、従五位下、     検非違使)に嫁ぎ、義兼(八条院蔵人)を産み、熱田大宮司家は後世の足利将軍家との血脈も繋ぐ事となった。     義兼は治承四年(1180年)、頼朝のもとに参じ、翌年北条時政の娘を妻室に迎えたことにより頼朝の義兄弟にも     なり、ともに熱田大宮司家を出自とする母をもつことから、源氏嫡流、足利氏、大宮司家の関係は一層密接なもの     となった。             治承寿永の乱が終息すると、大宮司家は頼朝の外戚家であったことにより、鎌倉幕府内で独特な位置にあり、     一般御家人に比べると殊遇された面があった。頼朝の熱田社に対する厚意(頼朝は熱田社を保護し、篤く崇敬し     た、以後武将の崇敬が続き、江戸時代には徳川氏は御供料四百五石、大宮司料七百十七石を寄せた)、並びに     大宮司一門への厚意はよく知られた所であるが、『吾妻鏡』、その他に頼朝と大宮司一門との関わりを示す記事が     種々あり、その中でも範信(星野氏)父子との記事に、強い両者の関係性を読みとる事が出来る。     範信(星野氏)は文治元年(1185年)頼朝の父義朝の納骨堂南御堂勝長寿院供養、又、建久五年(1194年)     同所で鎌田正清の娘が義朝および父の仏事を修した時、さらに同年頼朝の娘・大姫の本復祈願の為の相模国(神奈川県)     日向山参詣、および永福寺新造薬師堂供養などに随行参列しており、かつ上野介に任官していることなどから、     頼朝と強い絆があったものと思われ、範信が院に近い存在であったと同時に、頼朝御家人でもあった事が推測出     来る。     ※治承寿永の乱→治承四年(1180年)頼朝の挙兵から寿永四年(1185年)平氏一門が壇ノ浦で滅亡する     までの内乱、源平合戦。     ※鎌倉幕府→源頼朝が鎌倉(神奈川県鎌倉市)に開いた幕府(武家政権)。              範信(星野氏)の長男憲朝(範朝)は千秋と号し、千秋氏(始め有範、後に信綱、八條院判官代。その子範成は     院の蔵人、同じく範時とその子孫も蔵人であった)は建久八年(1197年)に、尾張国海東荘地頭職に補任され     御家人となったが、これより先に頼朝の推挙によって建久二年(1191年)に臨時徐目で駿河守に任官した。     源氏一門の受領任官が元暦元年(1184年)および文治元年(1185年)であり、頼朝の岳父北条時政の近江守     任官は正治二年(1200年)であったこと、それらの時期、又頼朝生存中に一般御家人が受領に任じられることが     なかった事などを鑑みると、大宮司一門は源氏に準じる特殊な門閥として幕府内で位置づけられていたことが確認     出来る。      範信の次男範清(始め範行)が星野氏(星野範清)を継ぎ、星野左衛門大夫と号する。     範清(星野左衛門大夫範清)は検非違使上西門院蔵人であったが女院崩御後には七条院(後鳥羽天皇の母)     に仕え、その子孫に蔵人になった者が多い、しかし彼は建久元年(1190年)、頼朝任右大将拝賀行列前駆     十名の一人に名を連ねた御家人でもあった。星野範清も千秋憲朝も女院に仕えると共に御家人として幕府にも     仕えるという朝廷幕府という二元的主従関係を持っていた。この様な事はこの一門の中に少なくなかっただろうと     思われる。     範清の長男が季茂、季茂の長男が孝泰(一宮蔵人)、季茂の次男忠能が星野氏を継ぐ。大宮司に就いた人物とし     ては『熱田大宮司千秋家譜』に貞和二年(1346年)に大宮司家の大江忠広野田範重千秋高範星野永能が     大宮司職を競望した事が記されている。系図以後の人物として永享六年(1434年)大宮司職に就いた星野義信、     同じく文明十六年(1484年)の星野政茂が確認出来る。範清の弟信雅は高松院蔵人で、次の弟憲行と実豪は延     暦寺権僧正、少僧都であった。     ※星野氏と千秋氏は室町時代に大宮司職を巡って度々争っているが、その原因の一つに社領の相続があると見ら     れている。                    熱田大宮司家一門は、鎌倉幕府三代の間は幕府に厚遇された面もあったが、三代実朝が暗殺されると一部を     除いて次第に疎遠になった様である。承久の変(承久三年・1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を奪回し     ようとして兵を挙げて敗れ、隠岐に配流され た戦い)では京方に参じた一門もあり、変後大打撃を被ったがそれで     も幕府の在京人再編成の過程で、一門はその命脈を保ち続けた。      星野範信(季範の次男)の系列一門(千秋氏、星野氏)と、範信の弟範雅の系列一門は御家人でありながら朝廷     とも関係の深い人物を多く輩出している。しかしこの一門と幕府との関係は本質的には頼朝との個人的な結びつき     に支えられたものであり、彼の薨去により薄れ、実朝が暗殺されると、僧侶、女性をのぞいて見るべきものがなくな     った。一方、皇室との関係は、季兼、季範以来、経済的利益関係の共有に基づくものでもあった事等により、     後鳥羽院政下に於いて京方(朝廷方)と成り、その関係性を深めてもいる。この範信、範雅の系列一門と朝廷との     関係は幕府との関係より時間的にも先行していたのである。      しかし範信の兄(嫡流系列)・範忠(季範の長男)の系列〔大江氏、萩氏、野田氏〕は、範忠こそ後白河院の近臣と     して活躍し、平家にも追従したが、他に朝廷と直接関係を持った人物はあまり見あたらない。範忠の系列は足利家     との婚姻関係により強い結びつきがあり、範忠の長男忠季は実朝の腹心でその孫忠成は幕府政所別当大江廣元     の実子であった。(※忠季の子の忠兼は大江廣(広)元の子、忠成を猶子とした。)     この系列は実朝暗殺後も幕府有力御家人の足利、大江氏との関係から関東に基盤を置いたと見える。             ※鎌倉時代→1185年頃〜1333年      ※後鳥羽天皇→生年治承四年(1180年)〜没年延応元年(1239年)               在位、寿永二年(1183年)〜建久九年(1198年) 建久九年(十九歳)、為仁親王に譲位し、             以後は院政を布く。        足利氏大宮司一門の関係を見て行くと、歴代足利将軍家が熱田社に対して造営や奉納を行った事は史上明     らかな事であり、そこに崇敬の念の篤さと共に、両者の実質的な関係性が窺われる。     『御的日記』、建武元年(1334年)条には「公家一統の御時」として御的の記事があり、一から五番、各二名の     計十名が射手を勤めており、その中に仁木頼章、細川頼春ら足利一門と並んで「三番星野左近蔵人、千秋左近     蔵人」と、その名が記されている。     大宮司家一門と足利氏との関係はもともと範信(星野氏)の兄・大宮司範忠の娘と足利義康との婚姻に始まり、     義康の孫義氏の姉妹を妻室とした野田朝氏の代まで両者は被官関係ではなく縁戚関係を保っていた。     鎌倉幕府滅亡に際して足利氏が大宮司家嫡流の野田氏、在京人の系譜を引く千秋氏、三河国を本拠としていた     萩、星野氏とその分流(星野氏の分流→ 一宮氏篠田氏長山氏)を掌握していたらしい事は大宮司家と足利氏     との関係が続き、やがて被官化して行った事で知る事が出来る。※篠田氏の被官化は不明。     建武新政、南北朝期初頭にかけて範信(星野氏)の子孫足利氏に被官化して、近習の立場にあったと見られ     る。貞和元年(1345年)の足利尊氏の天龍寺条供養には「諸大夫星野刑部大輔」、又、応安三年(1370年)の     足利義満の六条新八幡宮・北野社・祇園社の社参に「御踏星野左近大夫」の名がみえる。     ※野田氏→鷹司冠者・大宮司朝季の三男朝氏が三河国設楽郡野田(愛知県新城市野田)を領して野田氏を呼称。            鷹司は名字でなく1代限りの称号。          ※南北朝時代→延元元年/建武3年(1336年)〜元中9年/明徳3年(1392年)                      星野氏所領については延文五年(1360年)七月、畠山国清は細川清氏、土岐頼康らと謀って、三河守護     仁木義長を討とうとした事があり、この時星野行明が仁木義長に属さず細川清氏に加わった為、その所領を没収     されたという。その後義長が失脚し、守護が大島義高に替わった事により所領を回復したとみられるが詳細は明ら     かでない。星野氏は譜代の諸役として「大嘗會天羽衣織所役」を勤仕していたが文政元年(1466年)には本領     である三河国宝飯星野荘の知行権が離れており、この所役が出来なくなっていた。     『親長卿記』に星野四郎宗範が天羽衣織所役勤仕の為、星野荘返付を申し入れたが既に同所は幕府御料所して     政所執事伊勢貞親に預け置かれており、その改替は困難との理由で認められなかった事が記されているが、     その後『長享番帳』には五番衆(奉公衆)として「星野宮内少輔」と見えるので星野荘は御料所のまま星野氏に     返付されたものと思われる。】      ※以上、【『尊卑分脈』〜思われる】迄の引用文献→藤本元啓著(2003年)、『中世熱田社の構造と展開』、     (続郡書類従完成会刊) 詳しくは頭書の通り。               星野範信の次男の星野左衛門大夫(範清)の子孫とその官職、位などを見ると次の様になる。     範清の長男季茂(蔵人、従五位下、出羽守)、季茂の長男孝泰(一宮蔵人、大宮司)、次男忠能(昇殿、三河守、     刑部少輔)。忠能が星野氏継ぎ、忠能の長男保能(昇殿、三河守、蔵人、刑部少輔)、その子永能(昇殿、     従五位下、左衛門尉、刑部少輔、左近将監)は『太平記』にもその名が見えて、永能の子の信能(四郎、刑部少     輔)、清能(五郎)。季茂の弟範昌(蔵人、左近将監)、範昌の子範能(左近蔵人)、範能の子の保通、範昌の弟の      範継(後に範季、文章生、進士大夫)。忠能の弟能茂(篠田氏、長門守)は後鳥羽上皇の近臣。                     星野勘左衛門行明の名を「羽衣の松」伝説に見るが、『太平記』にも三河の星野行明とあり、季茂五代の範明     の子の事か。                     星野範信の兄、範忠の三代忠兼の猶子となった大江広(廣)元の五男の忠成(別名、海東忠成)の子孫に南朝     方の星野氏がいる、此の裔孫は越後国三島郡三島町の神官として系を伝える、分家は群馬県群馬郡の榛名町に     住す。※後の安芸国(山口県)の長州藩藩主家の毛利氏大江広元の四男・大江季光を祖とする。               星野氏の子孫は愛知県三河(愛知県東部)、尾張(愛知県西部)に存在し、室町戦国時代の人として郷土史     料 (『二葉松』、『安西軍策』 、その他)に、「◎三河国行明城(牛久保町行明)、星野日向守(※写真、「星野日向     守の墓」を拡大して閲覧)代々の居城也。◎三河国高村山城(加茂郡足助村)、星野刑部左衛門尉正頼の居城也。     ◎織田信長の子、織田信雄《生年弘治4年・1558年〜没年寛永7年・1630年、大和宇陀松山藩(奈良県宇陀      市大宇陀)初代藩主》の家臣分限帳に、下郷宮、星野新左衛門。     ◎豊臣秀吉の人、星野越中守(『安西軍策』)。◎天正二十年秀吉詰衆第二番、星野新左衛門、この人は秀吉の      馬廻衆、文禄元年・1592年、肥前の名護屋にあり。(『御詰衆御書事』)」などの記述がある。          『吾妻鏡』に星野出羽前司とあるのは星野左衛門大夫(範清)の長男、季茂の事と思われる。       ※『安西軍策』→毛利家の元就、輝元、秀元、吉川元春、元長、広家、小早川隆景等にまつわる合戦記録で、         その中心は毛利元就である。             前田利家に仕えて加賀〈加賀藩(石川県)〉に移った尾張出身の星野市郎太夫、加賀藩には星野覚右衛門、     星野九右衛門、星野高九郎などの名が見える。     尾張国愛知郡古井村の星野又吉次(星野吉次)、三河出身の星野東里《丹後宮津藩(京都)の儒学者星野小平     太韻は東里と号する》などもいる。         寛文九年、京都の「三十三間堂の通し矢」で名を挙げた尾張藩士(名古屋藩士)、星野勘左衛門茂則(星野茂     、寛永19年・1642年〜元禄9年・1696年)なども熱田大宮司家の裔孫である。     尾張藩士では尾張藩七代藩主徳川宗春の寵臣であった星野織部(五千石の大身となり老中となる。寛延3年・     1750年没)などの名も見える。     甲斐(山梨県)に移りて武田信玄に仕えし星野氏の流れもある、古物の伝承もあり、南巨摩群中富の旧家(星野家)     として系を伝え、分かれて静岡の庵原群に住する系統もある。             季茂の五代、信能の子孫に、戦国時代末期の星野次能があり、豊臣秀吉に仕えて後に信州(長野県)の小県群     に移り、更に上州(群馬県)の緑野群笛木にて、此の地の本陣問屋、名主として星野兵四郎家と星野金左衛門     家とに分かれて代々の系を伝える、藤岡の旧家である。                          三河(愛知県東部)より上州(群馬県)の片品村花咲に来住せし流れもあって、星野玄藩の子、図書を始祖として     天正年中以来の旧伝を蔵していて、子孫は沼田市(群馬県北部)の戸鹿野に住す。     利根郡(群馬県)片品村にはなお数流の星野氏がある。     沼田の真田氏(沼田藩)に仕えて諸流に分かれ、代々の系を伝える流れも多く、星野五兵衛甚右衛門なども郷土     史に知られている。同名異人の星野図書があり、利根郡利根村に住し「万屋」を屋号とする旧家は此の人の子孫     で、森山にも星野氏がある。         三河より移りて駿府(静岡)商人となった人に、星野七左衛門尉久次という人がいた。又、小田原北条氏     (後北条氏)の家臣にも、星野氏がいた。         戦国時代の末頃、今川義元の家臣福島政成の兄弟に星野二郎成政のいた事が『系図纂要』(江戸時代末期     の系譜集成)に書かれているが、熱田大宮司系の星野氏と由縁があると推察される。       尾張国清洲(愛知県、二十四万石)の大名となり、その後慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの終結後、戦功により     安芸、備後二ヶ国(四十九万石)の藩主として広島藩に加増移封された福島正則《(永禄4年・1561年〜寛永元年・     1624年)、天正13年(1585年)従五位下、左衛門大夫》は『系図纂要』に星野二郎成政の子で福島正光の養子     と記されている。正則はその後経緯があり元和5年(1619年)に信濃国川中島高井郡と越後国魚沼郡の高井野藩     (四万五千石)に減封、転封され、失意のうちに嫡男忠勝に家督を譲り隠居した。     安芸(広島県)の高田郡星ヶ城城主に星野市兵衛のいた事が『藝藩通志』に記     されている。福島正則の娘と正則の家臣大野猪右衛門との間に生まれた子は星野市兵衛と名乗り、浅野長晟より百     人扶持、後に千五百石を賜り安芸国に住す。※後に星ヶ城は槇ヶ城主長屋氏の領地となる。                                      藤原南家・星野氏略系図                                      系図 公卿類別譜〔公家の歴史ー尾張氏(千秋氏)〕※尾張氏系図の範信にマウスカーソルを合わせて参照、星野氏も参照      公卿類別譜〔公家の歴史ー藤原南家・貞嗣孫(星野・千秋・高倉)〕  
       2.藤原姓の諸流星野氏      熱田宮司系は藤原南家の裔孫だが、この他藤原北家などに連なる星野氏は北関東を中心として次の     系伝がある。武智麻呂の弟藤原房前六代の藤原秀郷の曾孫左馬允兼光の子孫は、北関東の豪族として     繁栄し、多くの苗字に分かれて いて、その中心は小山氏であるがその支流庶流の中に下野国出井郷     (栃木県)の星野氏がいる。     鎌倉時代初期の星野友太郎秀宗より以後の系もあり、秀宗十二代秀春、吉安の子孫は出井郷に住して     代々名主などを勤め、連綿の系を伝えて いる。     又、藤七郎家郷(藤原秀郷の弟)の子孫は平安時代末期より星野氏を号せしと言う。             鎌倉時代前期の星野太郎頼実の世系も伝承されている、父は頼親で此の星野氏は、近世には下野国     都賀群の荒井郷に住し、寛文年中の星野弥左衛門の名が見え、幕末の頃には源兵衛とある。            信濃(長野県)にも藤原姓の星野氏がいる、真田藩中の此の氏の始祖の星野兼房右京 は永禄(1558年〜     1570年)年中に存在した人で上杉謙信に仕えて五百石を領し、その子星野図書介(※川場合戦に名が見える)は     真田昌幸に仕え、上州の利根郡花咲村(群馬県)にて十五貫を知行をする。やがて明暦三年(1657年)の     「分限帳(藩の武士の名簿)」には、上州 の沼田より来たりし衆の中に二百石、星野平右衛門。七十石、星野五兵     衛。文政二年(1819年)の分限帳には、二百石、星野弥右衛門。七十石、星野清之助。明治四年の給禄適宜現     石調には、十二石五十一、星野誠一郎、などの名が見える。          高遠藩(長野県)にも、星野氏の一族があった。近世の中頃江戸詰の高遠藩士に星野純堅(寛政十二年・180     0年到仕)がいたが、その二子の兄星野葛山(名は常富、字は伯有、通称は 蔀、号は葛山)は安永二年(1774     年)に高遠藩の江戸藩邸で生まれ、天明4年(1784年)藩命により高遠に戻る。儒学、国学、経史などの百般に渡     って博覧で諸役を歴任して著作も多く、 『高遠記集成』は名著で歴史等を知る上でたいへん重要な書と言われてい     る。享和2年(1802年)には大目付、文化2年には長柄奉行、勘定奉行兼大目付になる。側用人、侍講など藩主     に信頼された。文化9年(1812年)江戸勤番中、病にて40歳で死没する。     弟星野純政は兄に子が無き為、その跡をぎ、学人にて群奉行など を勤む。天保六年・1835年死没。  
               3.江戸幕臣の星野氏      江戸幕臣の中にも星野氏の流れが数家あり、近世の中頃より以下の記録がある。星野小左衛門の     養子の与左エ門は神田館にて綱吉将軍に仕え、御家人となり、小納戸を勤めた。元禄十二年(1699年)     致仕(官職を退いて引退)。        広敷添番の星野加右衛門、其の子に林奉行、星野九左衛門などの名も見える。      伊賀国(三重県)の宇多源氏佐々木流、星野庶栄の子孫に支配勘定を勤めた織右衛門(済益)、     評定所留役、寺社奉行留役などを勤めた星野益庶なる人がいた。               又、文政三年(1820年)から文政十年(1827年)迄、山田奉行(伊勢神宮関連)を勤めた星野銕三郎     がいた。役高は千石。        幕末の頃納戸頭より目付、1864年に外国奉行となった人に、星野千之がいた、遣欧特使を命ぜられしも     実現せず、備中守に任じて慶応二年(1866年)十一月、禁裏(裡)付となった。※禁裏付→江戸幕府の     職名で天皇の様子を記録、皇居守護、経費管理などを担った、従五位下(朝廷と幕府を取り持つ立場から     自動的に叙せられる)、千石高。     1866年に星野録三郎成美(星野成美)は勘定奉行になり、豊後守に任じ、兵庫開港の事務取扱を     経て慶応三年(1868年)十月、禁裏付となり、十二月には勘定奉行に復職している。三千石高       
       4.筑後国の星野氏              筑後国の星野氏は、鎌倉時代の初期、後堀河帝嘉禄二年(1226年)、始祖星野中務大輔胤実が、筑後国     (現在の福岡県 南部)生葉群星野郷に封ぜられ、生葉、竹野両群の内壱千余町を領し星野に本城を構え、各地に     数多の支城を設け、防備 を厳にし、支配に便せり。爾来天正年間に至る迄実に三百六十年(360年)の長きに渉り、     その間盛衰常ならざれども、一方の重鎮とされし家統で、文永、弘安の二役に参加して勲功あり、特に吉野朝に盡し、     大義名分を 明らかにし、終始一貫 征西将軍宮を擁護し奉り、常に五條、菊池、黒木氏等と聯絡を取り、忠節を     全うする。(「星野氏史実顕彰会」より)         星野領主となってから約三百六十年後の天正十四年(1586年)、直系十八代星野鎮胤(吉実)の代に没落する     までの間、分家一族共に繁栄し筑後星野氏は吉野朝時代に、肥後の菊池氏と共に南朝に味方して終始その節を     曲げず、勤王星野氏の名は太平記その他の史書、島津、五條、名和、河野、木屋文書中に散見される所である。     昭和十七年歴史学者橋本徳太郎氏は征西将軍宮懐良親王の御在所と墓所を確かめる為に星野村に来訪され、     村内各地を実地に踏査するかたわら諸家の古文書を詳細に調査し、加うるに「勤王星野氏と流裔」をも併せて六百四十     頁にのぼる膨大な著書『征西将軍宮御在所御墓所考証ー附、勤王星野氏一族末裔の研究』なるものを発刊され     た。この著書の中で星野氏の動向について諸家の古文書を照合して探求されている。     没落後の星野氏の末裔は、その宗家は肥前佐賀(佐賀藩)、分家は筑前肥後(細川藩)、或いは遠く新潟などに     四散している。 《石橋正良著『星野宗家没落始末記』(『征西将軍宮御在所御墓所考証』より)より》      ※橋本徳太郎氏は昭和九年に文部省史跡名勝発行による『征西将軍と星野一族』も書かれている       中世、星野村を中心に威を振るった星野氏は、その祖を星野胤実と称し黒木助能の猶子で、京都に生まれた     という。嘉禄二年(1226年)、京都から当村に来たと伝え、本拠を本星野に置き、天正年間(1573〜92)末まで     勢力を誇った。(『角川日本地名大辞典』より)          胤実は源助能(黒木大蔵大輔源助能)の猶子で、徳大寺実定の子と伝えられており、黒木氏(黒木助能)は     多田行綱の子と伝承されて来ているが、最近の研究の醍醐源氏(有明親王A)の後胤源高能五代説が有力と思われる。     《以下、黒木町史より》「黒木氏の祖先は京都御所を守る武士であったが助能の四代前の源高能が朱雀天皇の     命により、太宰府を焼き払った賊、藤原純友を四国へ追い払った先祖の功により大隅国根占城主となると伝えられて     いる。高能の代から京都在住の徳大寺家とは親交のある関係から、瀬高庄の紛争解決とその後の監督、支配の為、     父能永と黒木庄に移ったのである。その年代は史料や系譜によって一致しないが、『根占文書(九州史料刊行会編、     『九州史料叢書』)』と『大根占町誌』により仁安元年(1166年)頃と推定される。」           『九州治乱記(北肥戦誌)』に、「黒木山の城に蔵人源助善(能)という者あり、其の先は薩摩の根占の蔵人とも     申しけり、歌よみにて笛の上手なり。」とあり、高倉院の御宇、源助能が大番役にて上洛した折りの内裏での管絃     の御遊に、助能の笛の器量を兼ねてから良く知っていた徳大寺左大臣實定卿の勧めにより笛を奏で、帝の叡感に     預かり調(しらべ)の姓と従五位下を賜った旨が記されている。又、「蔵人助善(能)、元来高倉院北面の侍なり。     六位を歴、歌人にて、異名にやさ蔵人と云う。」との記述がある。※助善を或いは助能と記されている。     別史料(『樋口宗保覚書』‐1669年、『北筑雑藁』‐1675年)などには、後鳥羽院の御宇とあり、「懐胎せし官女     小侍従を賜る」ともある。 ※黒木山の城→猫尾城             胤実は童名を八郎丸といい京都樋口小路に産まれ、小侍従の家と由緒あった樋口次郎太郎藤原実安が元服     させ、その後、後堀川帝より星野を拝領あって星野へ下向し、黒木の小侍従と母子の対面を成し、助能の猶子と     なり、これより黒木氏、星野氏は調(しらべ)党と号すことになり次第に繁栄する。(『樋口宗保覚書』より)           ※樋口氏と小侍従の家との由緒とあるが、樋口氏と徳大寺家との由縁もあるものと思われる。            『太宰管内志』に収載されている星野氏の事跡を辿ってみると、「多田蔵人行綱の子大蔵大輔源助能、云云。     助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の鼻祖で     幼名を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従(徳大寺実定の項を参照)といって、京都樋口小路の産まれで徳大寺実定卿の子か、或いは     後鳥羽院の皇子にして実定卿に託して子と成したとか。」とある。      ※徳大寺実定(後徳大寺左大臣)→藤原北家閑院流公実の曾孫、保延5年(1139年)〜建久2年(1192年)            ※黒木氏、星野氏、樋口氏(『遊覧雑藁 巻之二』(P.108から))                   続いて『太宰管内志』に【堀川院の時胤実は筑後国星野を賜り、嘉禄二年十一月星野に館を構えて本星野に     居る。且つ星野山中に内城高岩城を築き、其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は〔亀甲藤丸〕     とす。八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり、長を鎮実と云い右近大夫と     称す。本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安     の養子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部     大輔鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔     元親、其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。     鎮種の子星野下總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康は     本星野館に居る。次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔     吉實、次に星野右衛門太夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔     吉實は戦国時代の人で、この頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。     吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏黒木氏同盟して猫尾城を守る。     大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後黒木氏は龍造寺氏に属す。     常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文三年     (1535年)九月十三日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが、大友勢に攻められて周防(山口県東部)に逃る。     この後星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後     福丸城に高実がいたが、大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石     城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて、     豊後に奔り、弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正十四年     (1586年)八月二十五日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する】とある。        高鳥居山(たかとりいやま)は若杉山山脚の西に続く草山也。往昔若杉太祖宮二之鳥居の建つ所に因んで、     地名と為す、俚俗 は竹城と呼ぶ。蓋し小笹族生ずるを以て也。海抜三百八十一米東方は若杉に、南方は上須恵     に、西方は須恵に突属し、山上に高鳥居城址在り。若杉山の渓より引水を為す溝渠有り、十間戸樋と云う。これは     古え城中之用水を引く所也。東方の第一峰を飯焼と云い、最西方を草城と云う。九州探題北条貞時之臣、河津氏     が初めて高鳥居に築城するが北条氏滅亡より宗像大宮司の持城となりその後様々な氏が城主となるが天正二年     冬よりは空城となる。天正十四年筑後高取(鷹取)城主星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉兼、島津氏の催促に     応じ八百人を率い筑後を発し、岩屋根城を攻略し、筑前高鳥居城に入り、直ちに城櫓を修し、守備を厳にす。     八月十六日秀吉の先手が長門を発して豊柳ヶ浦に押し渡り、島津勢は陣払いを為して引退す。八月二十五日、     立花勢は進んで高鳥居城を囲む。初めより星野吉実、吉兼、高鳥居城を守りて生還を期さず。其の子、長虎丸を     使しめて、筑後に帰す。吉実主従自ら殉節を為し、草城十五詠を作り、辞世とする。(「竹城址蹟碑文」より)      ※星野吉実、星野吉兼、主従は武士としての道を貫く為に、武士の本懐を遂げる為に死んで行った。撤退して      星野に戻り領民を巻き込み無駄に故郷を血に染めたくはなかった、義のために命を捧げた。武士とは義の為に      自己を犠牲に出来る人の事を言うのかもしれない。              佐賀県史編纂資料、「星野村地勢附城塞と諸嶺峰」に「星野民部大輔吉実、弟吉兼は天正十四年豊臣秀吉     九州仕置きに際し島津義久と共に豊筑の間に出張防戦する。時に義久は薩摩に帰り星野吉実、弟吉兼をして     筑前高鳥居城を守らしむ。秀吉は立花左近宗茂並びに中国の兵(毛利氏)等を加え攻める。兄弟良く戦いしも     衆寡適せず城、将に危し、人あり、吉実吉兼兄弟を説くに速に降伏せん事を以てす。曰く、今我々降伏せば     島津氏に対して約に違う、潔く義死するに加し、敵前右上に据座し割腹自刎す。世人その義勇を歎称し、其の跡に     塚を築き吉塚と云う。今地名となれり。塚は博多駅の上吉塚駅の東にあり、余人常に参拝し香花を供す。」と記さ     れている      星野鎮胤(吉実)と弟鎮元(吉兼)の子である、鎮之(長虎丸)及び熊虎丸は、天正十五年六月、叔父、     石川右馬助(妻は吉実、吉兼の妹)夫婦の介添えで肥前の龍造寺政家に預けられ、石川右馬助は両名幼稚の     為、身代わりになって切腹したが、その後鍋島直茂に預け替えになり、鍋島家の家臣として仕える身となる。     又、吉実と吉兼の妹(後に三位の局と云われる。※佐賀県近世史料‐第1偏第2巻)も佐賀藩に仕え、兄の二人の     子《長虎丸(星野源兵衛親之)、熊虎丸(星野七兵衛親昌)》と自分の二人の子《長男は石川氏、次男は石尾氏(藩     主から貰った名)》を佐賀藩士として育て上げた。兄の子長虎丸は元服して星野源兵衛親之と云い、親之の子は     源兵衛重之で重之に嫡男がいなかったので娘に同藩の大木庄兵衛知明の子を婿養子とした。     『葉隠考補方六巻』に 星野惣右衛門英鉄、後に入道英鉄と号し、佐賀楠神社の創始者の一人であると同時に     筆墨は大師流と書かれている。この星野宗家の末裔は佐賀市に栄える。又、熊虎丸は、元服して星野七兵衛     親昌と云い直茂に仕える身となり、直茂の子、勝茂と次にはその弟の忠茂に召抱えられ、忠茂が慶長十七年に     小城藩に分家する時随従して、以後姓を松崎と改めたが、この子孫も 小城町にある。直茂の奥方陽泰院に仕えて     いた三位の局は陽泰院逝去の時、その報恩のために追腹殉死をしている。石川右馬介(助)、三位の局の子孫は     筑前国朝倉郡大庭にあり、弟、石尾又兵衛の子孫に有名な洋画家岡田三郎助氏(明治二年〜昭和十四年)がい     る。(『星野宗家没落始末記』より)      星野氏の始祖胤実は常に熊野権現を信仰す、依て星野下向の砌奉守一社を建立し、嘉禄二戌年十一月     初卯日御鎮座也。星野党城代々の氏神と奉敬、社人氷室源三郎奉守。(『星野家伝記』より)             星野村池の山の社麻生神社と室山の室山熊野神社《星野村(現八女市)指定文化財・史跡》 はいずれも      星野胤実の創建といわれている。毎年9月18日に麻生神社に奉納される「はんや舞」は、征西将軍宮懐良親王     を慰めるために始められたとも伝えられている。(『角川日本地名大辞典』より)      星野氏は常に勤王の志深く、南北朝の頃には口に勤王を唱えつゝ其の実変節するもの多々あるに拘わらず、     終始一貫能く南朝に勤め敵軍に降伏せし如きこと無しと伝えられる。(佐賀県史編纂資料「星野村地勢附城塞と諸     嶺峰」より)             1342年には麻生に「興国」という南朝年号を刻む石碑(現大円寺蔵)を建立している。正平14年(1359年)、     筑後川の戦いにも親王に従って出陣している。文中3年(1374年)征西将軍職を甥の良成親王に譲った懐良親王     はその後、下小野の内宮や大円寺を居とし、弘和3年(1383年)大円寺において死去したとする説があり、     大円寺北側の山頂にある墓が親王の墓として星野村(現八女市)の文化財に指定されている。     又、星野近郊の星野氏末裔が星野氏歴代の墓標を集め、供養したのが星野村(現八女市)文化財の星野氏墓所     である。(『角川日本地名大辞典』より)      玉水山大円寺征西将軍宮懐良親王ならびに勤王星野氏累代の菩提所で、星野村(現八女市)指定文化財・     史跡になっており、寺の由来書によれば神亀二年(725年)の創建で、星野氏歴代尊崇の観世音菩薩は行基の     作とされ、星野村(現八女市)の文化財に指定されている。     御開帳は五十年に一度と守られ、征西将軍宮懐良親王並びに勤皇星野氏累代の菩提所としての法灯は     今日迄絶える事無く守 られている。又、前述の様に一説には懐良親王は同寺で弘和三年(1383年)三月二十七     日に没したと伝え、現在境内に星野村資料館が建てられている。      懐良親王の子、良宗王《本名雅良王。号は後醍院(後醍醐源氏)》の母菊池重子姫は、菊池肥後守武重公と、     その室星野氏(豊姫)の娘と伝えられている。昭和十一年秋、おつれどんの墓と呼ばれてきた大円寺境内の一角で、     懐悟院殿銘五輪塔地輪《懐良親王御息所逝去〔元中六年(1389年)〕の供養塔、現在星野村史料館収蔵》     が橋本徳太郎氏によって発見されている。(『玉水山大円寺の由緒』より)      『太宰官内志』に天文三年(1535年)星野親忠は死すとあるが、佐賀県史編纂資料、「星野村地勢附城塞     と諸嶺峰」に「享禄年間、大友義鑑度々近国を略奪し名一世に赫き威武大いに張る。四隣その風を望みて皆降る。     独り筑紫国人星野親忠、勇武にして自立の志を懐く、義鑑大いに怒りて天文年間自ら兵を率いて親忠を生葉城     (星野支城)に攻む。利あらず して帰る。人を京師に馳せて之を訴ふ。幕府令を下し大内、島津、小貳及び千葉、     蒲池、秋月、筑紫,殆ど九州の兵を合わし星野城を攻囲せしむ。親忠勇武絶倫良く禦ぎ戦い、少しも屈せず、次年     閏五月に至る。 義鑑大いに衆を励ます。戸を踰え壁に乗る、城将に陥らんとす。大内氏人を遣わし諭す。     親忠遂に城を致して去る、行扁を知らず。明治の聖代新潟県藍川(北魚沼郡)に落去せし徴証あり、小千谷町を     中心に数十戸を存す。」とあり、この子孫小千谷市に栄える。昭和になって小千谷市のこの星野氏の子孫(千谷川村)に国から、     南朝に尽くした功により華族に列するとの話があり辞退している。     《享禄年間→1528年〜1532年。 天文年間→1532年〜1555年 室町幕府末頃(戦国時代)》      ※星野氏の越後行きを助けたのが大内氏と云われる。大内氏の重臣の仁保氏の親族である平子氏は越後国の      小千谷・川口方面を拠点としていた。この仁保氏の仲介によって実現したものと考えられる。             樋口実長は戦国期に星野氏の重臣であったが、星野氏滅亡後、小早川隆景に属し星野の再建に尽力した。墓は     村内仁田原にあり、「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓≪星野村(現八女市)指定文化財・史跡≫」と見え,寛永4     年(1627年)死亡している。同14年実長の孫実次が庄屋の時代,島原の乱が起こった。(『角川日本地名大辞典』より)        細川藩熊本藩(熊本県)》中の星野氏は、武芸の家として宝暦年中に星野角右衛門、その子龍助(名は實壽、天保十年     没)、その子如雲(四郎左衛門實、明治十五年没)と伝えられ、居合術、組打と薙刀の三芸師範であった。      秋月藩(福岡藩の支藩)に星野助右衛門実宣(星野実宣、1638年〜1699年)という算学者がいた、黒田候に     仕えて、廓庭と号した。      星野氏 醍醐源氏系図略、星野氏系図略

               5.諸国諸流の星野氏        京都市北区の玄武神社《祭神・惟喬親王(承和11年・844年生誕)》は、文徳天皇の皇子・惟喬親王     の母方の子孫で雲林院町に居住していた星野市正紀茂光《市正(いちのかみ)→律令制に於ける市司の長官》が、     元慶年間(877年〜884年)に悲運な惟喬親王の御霊をお慰めし、又王城北面の鎮護とこの地の守護神として、     親王がご寵愛された御剣(親王の祖父紀名虎の蔵していた剣)を親王の御魂代として奉祀したのが始まりと伝えられる。      ※平安時代→794年〜1185年/1192年      ※星野市正紀茂光は星野市正源茂光とも伝えられている。      京都市北区紫野雲林院町の若宮神社の御祭神は源氏の始祖清和天皇で、源頼光の邸内にあった鎮守社が     その起こりと伝えられ、源氏一族の屋敷が下京区六条の若宮八幡宮周辺に移った後、この地に社殿だけが     残ったとも伝えられるが、実際の創建年代は不明である。元慶2年(878年)、神職の星野茂光が神霊を勧請し     たと云う。                         近世の後期弘前の津軽藩(青森県)に書家の星野六蔵尚賢がいた、上田流の能書にて素閑と号し、諸役を     歴任して文政七年(1824年)四月に隠居している。 会津(福島県)の取麻群、田村群にも星野氏の伝承がある。     又会津には、戦国時代に小笠原長時(信濃国守護、戦国大名)、貞慶親子に小笠原流弓馬故実を伝授された     星野味庵がいた。 北海道に足跡を残した旧会津藩士で白虎隊の隊士(慶応4年(1868年)会津藩白虎隊足軽隊に編入)であった 星野義信(1853年〜1909年)の名も見える。      常陸国筑波郡(茨城県)の小田氏海老ヶ島城には海老ヶ島七騎なる武者がいて、その中に星野後藤太のいた事が     『小田一門家風記』《小田家家臣・小神野越前守が天文18年(1549年)に小田家一門と家臣の禄高を記録したも     のである。》に記されている。又、大番千騎の中に八百石、星野又右衛門とある。                    山形藩にいた星野氏は秋元侯(秋元家・譜代、6万石 1767年〜1845年)の転封に伴いて上州の     舘林(群馬県)に移り代々伝承して館林に在住する、又新庄藩(山形県)にも星野氏がいた。             群馬県山田群大間々町の星野氏は真田昌幸に仕えし星野図書を上祖とし、天正十四年(1586年)以後、帰農     し、此の町内には大勢の星野氏がいる。同じく群馬県桐生の菱町の星野氏の記録には、永禄十年に没せし星野小六     郎、二代目の宮内、三代目の彌次右衛門などの人名が見え、桐生氏に仕えし旧家でその系を伝える。     勢多郡粕川村(群馬県)に星野氏の家が数十家あり、赤城村勝保沢の星野氏は利根郡より移り来たとの伝承がある。     勢多郡黒保根村(群馬県)にも星野氏の旧家があり、上祖には星野左兵衛尉藤原政清の名が見え、上田沢、医光寺     過去帳に星野縫之助、水沼、常鑑寺過去帳に星野久右衛門とあり、苗字帯刀を許された旧家で、此の村内に数十家     ある。又、黒保根村には明治時代の製糸業者で政治家の星野長太郎(1845年〜1908年)、その孫で電気化学者の     星野ト(星野やすし1909年〜1986年)などの流れもあり著名である。             群馬県利根郡片品村に星野氏の流れが多く、前記の他鎌倉時代以来の旧家にて今は三十数代を伝うる     流れもあり、修験道と農耕の家(農家)である。     大渡代郷(菅沼、須賀川築地)に住し、上杉謙信に仕えし星野道乾、星野道賢その孫の道成などの名を見る。           川場村湯原(群馬県)にも星野氏が数十家あり、戦国時代には沼田の地侍であったとの伝えがある。沼田城の     家老職たりし星野勘助を始祖とする系もあるが、信州(長野県)に移りて松代藩士となりし星野家との関係は     不明である。        大正昭和期の女子教育学者、津田塾大学学長、星野あい(明治十七年生まれ)は群馬県沼田市戸鹿野     の豪農で横浜で生糸貿易業、星野屋を営んでいた父宗七と母るいの五女である。     昭和期の官僚、政治家星野直樹(明治二十五年生まれ)は星野あいの甥にあたる        勢多郡(群馬県)の北橘村には、紀伊国牟漏群星野平(和歌山県)を出身地とする星野氏があり、南北朝の     頃に南朝、後南朝に仕えた星野源六左衛門が、大和の桑原村より紀伊国に来住し、その居住地を星野平と云った     との事であるがその星野氏は北橘村へ近世初期の頃に来て土着したとの事で、上小室地区に数十家ある。     新里村武井の星野氏も、紀州の熊野から来たという。紀伊国の星野氏には氏と改めた流れもある。                  片品村(群県利根郡)には、板東平氏鎌倉権五郎景政の子孫という流れもあり、五霊社を氏神とする     一族で平姓の星野氏である。      下野国(栃木県)にも諸流 の星野氏あり。前述の小山の出井郷の藤原姓の星野氏の他、桓武平氏     良兼流、星野丹後景政を祖とする系もいる。曾孫は丹後守秀頼と系図に見え戦国時代末期の人を     星野藤之助景義といい、以下代々相承する。     日光の清滝稲荷町にも星野氏がある、鹿沼にも大勢の星野氏がその系を伝える。     足利市(栃木県)五十郡の星野氏も古文書を蔵する旧家である。北関東より武蔵に移り由緒を伝える星野氏の     流れも東京に少なからず。     武蔵国多摩郡上井草村に江戸初期から居住していた、旧家星野家に伝来されて来た星野家文書664点が     杉並区指定有形文化財となっている。              戦国時代 に武蔵より越後の柏崎(新潟県)に移った星野氏もいる。柏崎には本姓を平氏の末裔と伝える系も     あり、星野藤兵衛は此の地の人で勤王の士として広く活動し、明治九年没している。明治三十一年、正五位を     贈られている。     蒲原郡白根村(現在の新潟市)出身の星野恒は明治中頃の歴史家・漢学者である。明治八年、太政官修史局に     入り、『大日本編年史』の編纂にあたり、かたわら明治二十一年以来、東京大学教授として国史学・漢学を講じ史学科     の充実に尽くし、とりわけ漢学に造詣が深かった。     蒲原郡の猫興野村の名主星野氏の養子に明治前期の農政家星野考祥がいた。     頸城郡黒岩村(新潟県)にも旧家の星野氏がいる。     古志郡長岡(新潟県)の福井村にある星野氏は上杉謙信の家臣の後で此の地に帰農して郷士であった,     作右衛門を名乗る人が多く代々の系を伝えて繁栄する、その先祖は木曽(源)義仲に由縁ありしとの伝承がある。     又長岡藩士にも星野氏がいた。     能登(石川県)の鳳至郡門前町にも、旧家の星野氏がいて、総持寺代官の家との伝承を有している。        軽井沢(長野県)に明治37年(1910年)から星野温泉の開発を手掛けた星野氏《星野嘉助(1849〜1919)》が     ある。              福島正則の家臣に、星野井友敦なる人がいたが、先祖は 上総(千葉県)の名族の大多喜根小屋の城主、     武田信清の二男友信、眞里谷武田の一族で、友信の子友正、その子を友敦とし、氏号を改めて星野としている。          山城(京都府南部)の上賀茂神社の社家に星野氏を号する流れがあるというが賀茂十六流の系図には無く、     詳細は不明である。             大和出身にて、元和九年(1623年)に没せる星野掃部を祖とする系もあり、東京に在住の子孫がある。        三重県熊野市飛鳥町大又に星野氏の居城星野城があった      大和国(奈良県)の高取藩士に星野氏があり、大和郡山藩士に星野氏がいた。『大和郡山市史、史料集』の 「本多唐之助家中覚書」に百石、星野伝左衛門、同じく「郡山藩分限帳明治改正高表」(樋口氏文書)に四十石、     星野共辰、大和宇陀松山藩(奈良県宇陀市大宇陀)初代藩主織田信雄の家臣分限帳に、下郷宮、星野新左衛門     などの名がある。               河内国(大阪府南東部)交野郡の松部村には、戦国時代の頃に星野刑部左衛門親忠がいた、その子     能末は本願寺の蓮如上人の弟子となったとの事である。      丹後(京都府北部)の竹野郷には天正年中に星野周防守が成願寺城に居り、細川氏に攻められて没落している。      近世の中頃の広島の医家(医者)に有名な星野良悦(享保二年没)がいる。     幕末には広島藩士星野良徴の子に勤王家の星野文平がいて、名を公質といい、内外に活動して文久三年     (1863年)死す、享年二十九才、明治二十四年十二月、正五位を贈られている。     備後(広島県東部)の福山に転ぜし星野氏も福山の旧家である。              江戸の留守居役、吟味御留役人、星野鉄三郎などの名が見える。(『近世武家言葉の研究』に於いて江戸の     上中級武士の使っていた言葉を、寛政元年・1789年の裁判記録に於ける星野鉄三郎の台詞から、紐解き分析     している。)               三河松平氏に仕えて、子孫は越前鯖江(福井県)の藩主となりし間部氏の先祖詮清が、星野刑部と     称せしことが 『系図纂要』に記されている。その子清貞は西田氏、その子、間部詮房の時に五万石の大名と     なる。        埼玉県志木市の星野氏も旧家で名主を勤めた星野半平〔文化十一年(1814年)頃の引又・市場通りの絵図〕、     並びに星野半右衛門日記十一冊、この両名のその絵図と日記は志木市指定文化財になっている。     埼玉県ふじみ野市の長宮遺跡・長宮城 は長宮氷川神社宮司星野氏の館址と想定される。長宮氷川神社は北面武     士の星野信秀が長徳元年(995年)、この地に土着し出雲大社から祭神を勧請した事が神社の始まりとされ、出雲の     国簸ノ河上、杵築大社よりこの地に遷した事が「長宮氷川神社縁起書」に記されているという。また、神社の参道が四町     十六間に及び、門前町は「長宮千軒町」と称され、大いに繁盛したと伝えられる。館は、戦国末期まで使用されていたよう     である。この星野家に伝わる江戸時代初期から明治時代までの505点の星野家文書(古文書)が市指定有形文化財     となっている。      埼玉県の中山道浦和宿本陣、問屋を代々努めた星野権兵衛家は豊臣秀吉の岩槻攻略に功があった家で、家康の     関東入国以来名主を努めた。明治天皇は明治元年に大宮氷川神社を鎮守勅祭の社とする詔書を発し、明治元年、     及び明治三年の氷川行幸の際、浦和宿本陣星野家に宿泊された。敷地は千二百坪〔現在は一部分のみが仲町公園     として整備されている。浦和宿本陣跡(市指定史跡)〕で、母屋二百十坪、土蔵、番所、物置は、明治時代に、後継ぎ     が無く、取り払われたが、表門は大間木の大熊家に移築され現存している。(市指定有形文化財)      山梨県の花咲宿の名主で下花咲宿の本陣であった星野家住宅国指定重要文化財となっている。     明治13年(1880年)明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にされた。               江戸東京博物館所蔵文書に、檜物町(現、東京都中央区八重洲一丁目・日本橋三丁目)とその周辺を     代々支配した星野家の文書全六点があり、星野又右衛門家康の江戸入りの時(天正18年・1590年)に付き     従って移住して来た草分け名主のうちの一人で、名主役を息子に引き継がせる際の記録や、檜物町周辺の神田上水の     絵図などがある。      東京都足立区南蔵院〈元和五年(1619年)開山〉の縁起には久左衛門新田を開発した名主星野彦六の     墓碑がある事、彦六の先祖星野又太郎(1630年没)が福島正則の旧家臣で、当地を開墾し、寺を開創した事などが     書かれている。※「東京府村誌」(都公文書館蔵)等に見える浪人達                   江戸時代の旗本佐久間信尹の婿養子となった越後(新潟県)糸魚川藩主松平日向守賢房の六男、佐久間信崇の     母は星野氏であった。             四国に於いては、『高松藩(香川県)由緒禄』(歴史資料館蔵)に「星野平左衛門、星野宮内左衛門」などの     名が見える。又愛媛県の伊予、三島、土居などに星野氏の系があり、伊予の一柳直盛(西条藩)に仕えし人に     星野文左衛門、星野角三郎などがいて尾張出身である。     大洲藩士(愛媛県)にも星野氏がいて、紀伊国 の出身にて近世の前期に加藤泰興に仕えし星野孫大夫を     始祖とする流れがある。              伊予松山藩主四代松平隠岐守定直(松平定直、幼名鍋之介)の内室稲葉氏の逝去後、長子(嫡男)万之介     (母、稲葉氏)が逝去し、五年後に次男鍋之助(父と同じ幼名、母は星野氏)が生まれ摘男になるも三才で病死する。      千葉氏(※千葉一族「ほ」を参照)の一族にも星野氏がいた、この氏は東氏(千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤)を始祖とする     一族の流れをくむ一族で、戦国期の森山城東氏(千葉県香取市岡飯田)の重臣であったが東氏滅亡後は     帰農している。      姫路藩士(兵庫県)、星野乾八の長男で明治、大正、昭和期の実業家、星野錫(1855年ー1938年)なども     知名の士である(1912年、衆院議員に当選)。海外の実業界を視察して週休制の導入日本初の女性事務員の     採用など、実業界全体にも多大な貢献をしている。      維新後島根県大書記官を勤めた星野輝賢(1842年ー1906年)、その父星野輝省椎谷藩督学(新潟県柏崎     出身)1818年ー1873年》、新潟県出身で宮内省式部職掌典部掌典となり、「大正天皇の大喪儀」、     「昭和天皇の即位礼」の運営にあたった星野輝興(1882年−1957年)などがいる。
      参考文献                           『中世熱田社の構造と展開』→藤本元啓著(2003年)(続郡書類従完成会刊)             『二葉松』          『安西軍策』          『織田信雄分限帳』 大和宇陀松山藩、初代藩主の家臣分限帳           『加賀藩史料』                  『松代藩分限帳』 明暦三年(1657年)、文政二年(1819年)          『系図纂要』          『藝藩通志』          『尊卑分脈』          『御詰衆御書事』          『高遠藩分限帳.』          『吾妻鏡』 『荘園分布図』ー吉川弘文館 『国史大事典』          『征西将軍宮御在所、御墓所考証ー附、勤王星野氏一族末裔の研究』→橋本徳太郎著          『征西将軍と星野一族』→橋本徳太郎著          『星野宗家没落始末記』→石橋正良著           『黒木町史』           根占文書(九州史料刊行会編、『九州史料叢書』)          『大根占町誌』          『九州治乱記(北肥戦誌)』→馬渡俊継(佐賀藩士)編纂、長森以休(佐賀藩士)訂正浄書          『樋口宗保覚書』→1669年          『北筑雑藁』→1675年、真名辺仲庵(藤井懶斎)著、仲庵は儒学者で医者   『太宰管内志』→伊藤常足著          『遊覧雑藁 巻之二』(P.108から)→矢野一貞著(江戸期の久留米藩の史家)          「竹城址蹟碑文」                    『葉隠考補方六巻』→枝吉神陽著(幕末佐賀藩の尊皇派リーダー、副島種臣の兄)          『家系研究』→家系研究協議会          『星野家伝記』          『日本家系・系図大事典』→奥富敬之著(2008年)東京堂出版          『角川日本地名大辞典』            佐賀県史編纂資料「星野村地勢附城塞と諸嶺峰」          『玉水山大円寺の由緒』          「星野氏史実顕彰会」          『懐良親王顕彰会』          『福岡県史資料』 、        『津軽藩旧記伝類』          『福島正則家中分限帳』 『長岡藩政史料集(6)』(「長岡藩の家臣団」)          『大洲秘録』          『加藤家臣録(大洲)』          『郡山藩分限帳』(明治改正高表)※大和郡山藩 『高松藩士由緒禄』 『細川家家臣略系譜』  『コンサイス日本人名事典』→1991年 三省堂編修所           『系図文献資料総覧』
| 1.熱田大宮司家の星野氏 | 2.藤原姓の諸流星野氏 | 3.江戸幕臣の星野氏 | 4.筑後国の星野氏 | 5.諸国諸流の星野氏 |